歴史

日本人は新たな段階へ!食料を生産するって素晴らしい

歴史

小学生の頃から「縄文時代の次は弥生時代だ」ってみんな習いますよね!でもなんで”弥生”という名前なのか知らない人も多いです。「弥生土器を使っていたから!」…もちろんそうなんですが、じゃあ弥生土器ってなんで【弥生土器】なの?意外と知られていないんですよね~

弥生土器は、東京都本郷区向ヶ岡弥生町(現在は東京都文京区弥生)で発見された土器だから【弥生土器】という名称が一般化し、弥生土器を使う時代を【弥生時代】と区分するようになったんです。最初に土器が発見された場所が違えば、全く違う時代区分になっていたかもしれないんですよ!

日本の時代区分なんて結構適当に決まったんだな~って思ったら少し気がラクになりませんか?

米づくりの歴史。中国のお話をかいつまんで説明

米づくりの起源についてはまだ解明されていないことが多いですが、西アジアを中心とする地域が一番早くにスタートさせていたといわれています。日本に最も影響を与えたのは中国大陸の米づくりですね。

中国大陸では、紀元前6500年頃から黄河流域と長江流域で稲作がはじまったといわれています。さらに紀元前6世紀ごろからは鉄器の使用が始まったことでもわかるように”戦いの時代”が始まった訳です。”春秋・戦国時代”って言ったら分かります?最近はキングダムが人気ですね!!

そんな戦いの時代を通して中国には強い統一国家が誕生します。「秦」とか「漢」とか。この統一国家が徐々に朝鮮半島まで支配を広げ、日本にも強い影響力を及ぼす存在になります。

この流れで日本に伝来したのが米づくりの技術金属器などの新しい道具ですね!ただし、情報と道具だけがやって来たわけではありません。技術を身に着けた大陸系の人々も日本列島にやってきて根付いていったんですよ。

日本の米づくりは縄文時代からはじまっていた!

いろいろな研究が進んで、現在では日本で見つかっている初期の水田跡は縄文時代晩期の遺跡として位置づけられています。

佐賀県菜畑遺跡福岡県板付遺跡が特に有名ですね。

佐賀県と福岡県と聞いて、米づくりが九州北部から広がり日本に伝わったのだ!と理解してくれればOKです。

ちなみに日本に定着した米は【水稲農】と言って、田んぼに水をたっぷり蓄えた状態で育成する旨味の強い米です。はじめは湿田という湿地帯に直播して稲を育てていましたが、湿地帯って水はあるけど太陽の光が届きにくい!つまり収穫量が多くなかったんです。

なので乾田の開発が進みます。乾田とは日当たりの良い乾いた土地を水田にすること。川から水を引いてこないといけないし、不要になった水を捨てる排水路も必要です。この水を管理する施設を【灌漑】といいます。わざわざ手をかけても、乾田に苗植えをすることで収穫量が増えたって訳です。

食料採取の時代から、食糧生産の時代へ

さあ、本日のポイント!縄文時代と弥生時代の大きな違いは食生活の変化です!!

弥生時代、人々の生活は大きく変化しました。水稲農耕が広がり食料を自ら生産する生活になります。もちろん狩猟・採取・漁労も続けていますよ。ブタなどの飼育も始まったことが確認されています。でもやっぱり弥生人の生活の中心が米づくりになったことは、遺跡や出土遺物からもよくわかります。

<主な弥生時代の道具>

  • 大陸から伝来した磨製石器・・・石包丁
  • 木製農具・・・耕作用の鋤(すき)鍬(くわ)、田植え用の田下駄、脱穀用の木臼(きうす)竪杵(たてぎね)
  • 弥生土器・・・煮炊き用の、貯蔵用の、食器の高坏(高杯)
  • 金属器・・・実用具として鉄器、祭祀用具として青銅器

特に石包丁は、半月状の磨製石器で稲を刈り取る際に用いられる道具です。この収穫の方法を【穂首刈り】といいます。稲の先端部を刈り取る方法で現在の方法とはちょっと違いますね!覚えておくと良いです。

弥生土器は種類が豊富!用途に合わせて形が変化

上にもまとめていますが、弥生土器にはさまざまな形のものが見つかっています。大きく3つに区分して説明しましょう。

まずは【】。これ漢字が難しいんですけど何気に書かせる問題が多いです。後から【甕棺墓】ってのがでできちゃうので。。難しいのでよーく見て書く練習してくださいね!甕は、縄文土器と用途としては大きく変わりません。水を貯めたり煮炊きするのに使ったので大きな容器と思ってください。

次に【】。これは特徴的です。弥生時代の人々は米づくりをはじめましたよね?米は秋に収穫し1年間で大事に大事に食べます。この収穫した米を大事に保管するための入れ物が壺です。縄文時代なら穴を掘って貯蔵穴にどんぐりを入れておいたんですが、米を埋めてたら芽が出てきちゃうしネズミにも食べられちゃいます。なので壺に大事にしまって【高床倉庫】という建造物にしまいます。

最後が【】や【高坏】です。教科書には【高杯】と書いてあるかと思います。材料が土なのか木なのかの違いなので漢字はどちらでも構いません。鉢や高坏は食器として使われていたと考えられます。弥生人にとって食事は「ただ腹を満たすこと」じゃなくなったのかもしれませんね!

出典:『最新 日本史図表』第一学習社

ここで土器の特徴をまとめてみましょう。縄文土器と弥生土器の違いです。

<土器の特徴>

  • 縄文土器・・・厚手で黒褐色
  • 弥生土器・・・薄手で赤褐色

 ◎弥生土器の種類:甕(煮炊き用)壺(貯蔵用)鉢・高坏(食器用)

縄文土器は「厚手で黒褐色」。縄文時代は土器を焼くとき、焚火の中にドンと置くだけなので低温でしか焼くことができません。厚く作っておかないと壊れてしまう可能性が高かったのでしょう。黒褐色というのは、焚火で焼くのでがつススいて黒色になった訳です。

一方弥生土器は「薄手で赤褐色」。縄文時代に比べて高温で焼くことができるようになったため、薄く作ることができたのだと考えられています。赤褐色とは”土の色”、ススがついていない原材料の色と理解してくれたら良いと思います。

金属器の鉄器と青銅器も中国から伝来してきました。主な使用方法は次回お話ししましょう。

弥生文化は本州だけ!米づくりを行わない地域もあるよ!!

米づくりが始まるのが弥生時代の最大の特徴であるにも関わらず、米づくりが根付かなかった地域もあったんです。

それが、北海道沖縄・南西諸島でした。

北海道では、水稲農耕は定着しませんでした。気候の影響も少なからずあると思いますが、何より食料採取が容易でわざわざ米づくりをする必要がなかったためと考えられています。現在でも北海道は美味しい食べものが豊富なイメージがありますよね!沿岸部に行けば海の幸に恵まれ、山に行けば動物もたくさん生息していました。そのため【続縄文文化】と呼ばれる食料採取の生活が続きます。

同じく、沖縄を含む南西諸島でも【貝塚文化】と呼ばれる漁労を中心とした食料採取の生活様式がこれまで通り続いたと考えられています。

日本の時代区分では”弥生時代”となった紀元前4世紀頃でも、北海道と沖縄には【弥生文化】は根付いていなかったということです。例外もあると覚えていてください。

<弥生文化の根付かない地域>

  • 北海道・・・続縄文文化
  • 沖縄・南西諸島・・・貝塚文化

弥生時代に米づくりの技術とともに大陸から伝来した人類を【新モンゴロイド】といいます。対して更新世にやってきて縄文時代を生きた人類を【古モンゴロイド】といいます。古モンゴロイドは彫りが深くて毛深い”濃い顔”をしているんですが、新モンゴロイドはのぺっとした”薄い顔”をしています

現代の日本人は、古モンゴロイドと新モンゴロイドが混血した結果生まれたものと言われているので中間的な特徴なんですが、沖縄の人とかアイヌの人に”濃い顔”の方が多いのは弥生時代の生活の違いが影響しているともいわれてます!

そう考えると、「ソース顔」「しょうゆ顔」「しお顔」の好みもルーツによって決まるのかもしれませんね!あれ?それは違う??専門外でした~

<まとめ>

(1)弥生時代になって、食料採取から食糧生産の時代へと変化

(2)九州北部から、稲作技術とともに新たな道具も伝来する。

3)弥生文化が定着しない「続縄文文化」「貝塚文化」も存在する

コメント

タイトルとURLをコピーしました