歴史

日本に来た渡来人はどんな生活をおくっていたのか?【大陸文化の受容】

4・5世紀になると倭国は朝鮮半島との戦いをはじめたことで、

戦いに巻き込まれた大陸の人々が日本やって来る【渡来人】と呼ばれる存在がいたことを勉強してきましたよね!

でも、渡来人たちは倭国に来てどのような生活を送っていたのでしょう?

現在でも海外に移住するとなれば、住むところを探さなければならないし

仕事だって探さなければいけませんよね。

渡来人の場合、仕事にしたことは大陸で身に着けた技術だったんです。

漢字の読み書きだったり、モノづくりの技術だったり。

渡来人たちが倭国でどのような役割を担ったのか、渡来人の影響で日本の文化がどのように変化したのかを詳しく解説していきましょう(*‘∀‘)

『古事記』『日本書紀』には初期の渡来説話が残っている

まずは伝説的なお話からしていきましょう。

”説話”なので、実際にいた人物かどうかは不明ですが、どのような人物だかイメージを持つことは大事かなと思います。

<渡来説話の人物>

  • 王仁(わに)・・・西文氏(かわちのふみうじ)の祖と言われる。論語や千字文を日本に伝えた人物。
  • 阿知使主(あちのおみ)・・・東漢氏(やまとのあやうじ)の祖と言われる。史部(ふひとべ)の管理を行った人物。
  • 弓月君(ゆづきのきみ)・・・秦氏(はたうじ)の祖と言われる。養蚕や機織り技術を伝えた人物。

王仁は漢字が得意で、子孫たちが西文氏になる。

王仁】という人物は、漢字の読み書きが達者だったようで倭国には論語や千字文を伝えたと言われています。

「論語」って言えば、孔子の言葉をまとめた本です。

日本に伝わったのは実は古墳時代なんですね!!

「論語」に詳しくて、「千字文」という書道の教科書みたいに上手な文字を書く。

そんな漢字の読み書きができる王仁の子孫たちは、【西文氏】(かわちのふみうじ)と呼ばれる一族を形成して大王に仕えたと言われています。

阿知使主も漢字が得意で、子孫たちが東漢氏になる。

阿知使主】という人物も同じく、漢字の読み書きが達者な人物だったようです。

阿知使主の子孫は【東漢氏】(やまとのあやうじ)と呼ばれる一族を形成しますが・・・

【西文氏】と【東漢氏】って似てますね。混乱しそうです(>_<)!!!

簡単に説明すると、当時渡来人の中でも漢字の読み書きに秀でていたのが、王仁の一族と阿知使主の一族の2つでした。

これを統率するために、西と東に分けて役割分担させたってこと☆

ただし西と東の読み方は、西が(かわち)。これは大阪府の昔の国名【河内】のこと。

東は(ヤマト)。これは奈良県の昔の国名【大和】のこと。

日本地図を思い浮かべてみてください。大阪と奈良。西側にあるのは大阪ですよね!

だから西と書いて(かわち)と読み、東と書いて(やまと)と読んだって訳です。

なんだかややこしいけど、理解しちゃえば大したことないなって感じでしょ??

ヤマト政権は彼らに【史部】と呼ばれる役割を担当させていました。

史部とは漢字を用いて記録を残したり、出納や外交文書などの作成を担当する仕事のことです。

ヤマト政権にとって漢字を使いこなす渡来人は、頼りになる助っ人外国人だったってことですね( ´艸`*)

弓月君は機織りが得意で、子孫たちが秦氏になる。

最後に【弓月君】は機織り技術を伝えた人物です。

機織り】っていうのは布を織ることですが、

弓月君は一緒に【養蚕】の技術、つまり蚕というイモムシを育てて繭から絹の糸をつくる技術も一緒に伝えているので、絹の布を織る技術を伝えたのだと考えられます。

弓月君の子孫は【秦氏】という一族をつくり大王に仕えました。

ちなみに秦氏っていうのが、秦の始皇帝の子孫なんだって言われているんですが本当なんですかね~?

渡来人たちは技術者集団に編入され、大王に仕えた

渡来説話でも説明したように、渡来人たちは自分の得意ジャンルを活かして倭国で仕事についていました。

逆に言えば、倭国のヤマト政権は渡来人たちが持っている大陸の技術を獲得するために

渡来人たちに仕事を与え生活を保障し、朝廷に奉仕させていたんです。

渡来人たちはさまざまな技術を持っていたので担当させた仕事も様々でした。

様々な技術者集団を総称して【品部】(しなべ)と言います。

<渡来人を編入した技術者集団>

  1. 史部(ふひとべ)・・・ヤマト政権の記録担当。出納や外交文書も作成。
  2. 韓鍛治部(からかぬちべ)・・・朝鮮系の技術を使った金属工芸を担当。
  3. 陶作部(すえつくりべ)・・・須恵器という土器づくりを担当。
  4. 錦織部(にしこりべ)・・・錦という高級な布の機織りを担当。
  5. 鞍作部(くらつくりべ)・・・鞍という馬の背に乗せる道具を作る担当。

  

品部というのはたくさんの種類があるのですが、渡来人が活躍した技術者集団を抜粋して上記にまとめてみました。

特に覚えていて欲しいのが、1【史部】と3【陶作部】ですね!

陶作部】というのは(すえつくりべ)と読みます。土器を作る職人集団をさす言葉なんですが、ただの土器ではありません。

古墳時代には弥生土器の作り方を継承した【土師器】(はじき)という土器もあるんですが、

朝鮮半島から新たに伝来した作り方を用いて【須恵器】(すえき)という土器も使い始めるんです。

朝鮮半島から伝来した新しい作り方っていうのは、登り窯を用いてより高温で土器を焼く技法なんですが、

写真を見てもらうと、上の【土師器】は弥生土器と同様に赤褐色であるのに対して、

下の【須恵器】は灰色をしているのが、分かってもらえると思います。

【土師器】『詳説 日本史』山川出版社
【須恵器】『詳説 日本史』山川出版社

【須恵器】はより硬く丈夫に作られた土器なんですね!

で、この【須恵器】を作る職人さんたちが【陶作部】です。

つまり朝鮮半島から来た渡来人の職人さんがヤマト朝廷に土器を作る仕事で奉仕していたと理解できますね(*´ω`*)

史部の記録によって「帝紀」「旧辞」が作られた

そして忘れちゃいけないのが【史部】です。

【史部】とはヤマト政権の記録担当で、出納・外交文書の作成も行っていた技術者集団でした。

西文氏や東漢氏の多くも史部としてヤマト政権に奉仕していましたね。

史部の仕事として注目して欲しいのが、【帝紀】【旧辞】の作成です。

「帝紀」とは大王の系譜を中心とする伝承。

「旧辞」とは朝廷の伝承や説話、が書かれた歴史書のような記録と言われていますが、

残念ながら現存しないので内容を確認することはできません。

しかし、中国では早くから歴史書の編纂が行われていることを倭国の王だって知っているはず。

この頃から倭国も歴史書の編纂を始めていてもおかしくはないですね!

ちなみに、「帝紀」「旧辞」は現存しませんが、『古事記』『日本書紀』の編纂時に参考となった書物だと言われているので、名前はバッチリ覚えておきましょう☆

朝鮮半島を経由して、仏教と儒教が伝来する

仏教と儒教だけでなく、医学・暦法・易学なども百済から伝来してきました。

特に大きな影響を与えたのが仏教と儒教ですね!

儒教】とは、孔子を始祖として体系化された思想・信仰のこと。

簡単に言ってしまえば、「親孝行しなさいとか、目上の人は敬いなさい。」みたいな道徳的教えと理解してもらえれば大丈夫かと思います(;^_^A

伝わってきたのは、6世紀頃に百済の【五経博士】が伝えたと言われています。

五経博士】というのは個人名ではなく、五経という5つの儒教経典を研究する人たちのこと。

つまり、倭国に儒教にめっちゃ詳しい人がやってきて【儒教】が倭国に伝わったということです。

仏教伝来には私伝と公伝があるが、公式なものを重視する

もう一つ、忘れちゃいけないのが【仏教】です。

仏教】というのはインドのお釈迦様が説いた教えから大系化した信仰ですよね。

日本に仏教がいつ・どのような形で伝来したのかには諸説あって、簡単には私伝と公伝という風に区分されます。

まず、私伝というのが個人的なつながりによって伝来したもの公伝というのが公式に伝来したものを指しています。

歴史としては私伝が古く、渡来人の【司馬達等】という人物が仏教の存在を日本に伝えたと言われています。

あ、ちなみに司馬達等の孫は【鞍作鳥】で飛鳥大仏とか作る有名人なので、またあとで紹介しますね☆

その後公伝という形で、百済の【聖明王】(聖王)が日本の【欽明天皇】に仏像と経論を伝えたました。

これが仏教公伝とよばれ、日本史的には公伝の方が重視されます!

まぁ、国王と天皇の公式な出来事なので、重視されるのは当然ですかね( *´艸`)

さて、ここで話が終われば簡単なんですが、仏教公伝には年号も大事になってます。

なぜかというと、この聖明王と欽明天皇のやり取りが西暦何年のことなのか2説あるから

(・∀・)なんでやねん

はい!まずはゴロ合わせを紹介します☆参考程度に見てください~

<仏教公伝>ゴロ合わせ

「ゴミ屋(538)さんは午後に(552)くる!」

西暦538年に仏教が伝来したと示している史料が『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』です。

この西暦538年に伝来したという説が、現在では有力と考えられていますよ!

ちなみに『上宮聖徳法王帝説』というのは聖徳太子の伝記の1つです。だから”聖徳”って書いてあるんですね。

もう一つの説が、西暦552年に伝来したという『日本書紀』の記載です。

どちらが本当か?ということよりも、2つの説があるんだ!って理解してもらうのが一番いいかと思います!

大陸の文化は朝鮮半島、特に百済を経由して伝来する

今回は渡来人などの人間を介して、大陸の文化が倭国(日本)にどのように入って来たかを勉強してきました。

注目して欲しいのが、中国から直接伝来する訳じゃないってこと!!

漢字も機織り技術も、儒教や仏教だって、元は中国で発展した文化です。

でも古墳時代の倭国はそれらの文化を朝鮮半島を経由して学んでいたことを忘れないようにしましょう!

特に【百済】と倭国は仲良しなので、多くの文化を百済から学んでいます。

仏教も儒教も医学・暦法・易学も百済から伝来したとインプットしておきましょうね☆

次回は、残りの文化を一気に説明します(*´ω`*)

<まとめ>

(1)渡来人は品部とよばれる技術者集団に組織され奉仕した。

(2)『古事記』『日本書紀』のもとになる「帝紀」「旧辞」がつくられた。

(3)儒教や仏教は朝鮮半島の百済から伝わる。

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