歴史

5世紀の倭国の様子【東アジアとの交渉】【ヤマト政権と政治制度】

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5世紀になると倭国には5人の王がいた事が分かっています。

5人の王とはどのような人物で、倭国はどのような状態になったのでしょうか?

今回は中国の歴史書【『宋書』倭国伝】を紹介します(*´ω`*)

朝鮮をめぐる争いに勝つために倭国は宋に朝貢する

5世紀になると、再び中国の歴史書に倭国の記載が見られるようになります。

理由は、4世紀から始まった朝鮮半島の土地や鉄をめぐる戦いが激しさを増すから!

倭国の王は、権威を手に入れ外交・軍事上の立場を有利にするため中国の皇帝に使者を送り【称号】を得ようと考えたんですね(^^)

当時の中国は【南北朝時代】と呼ばれ、北には【北魏】という遊牧民族の王朝が置かれていて、南には【】という王朝がありました。

倭国はこの【宋】に対して使者を送ります。つまり倭国は【南朝】と仲良くしたい。ってことですね☆

『宋書』倭国伝には、”倭の五王”が登場!

5世紀に成立したの宋の歴史をまとめた『宋書』という歴史書があります。その歴史書の中の”倭国”について書かれた部分が【『宋書』倭国伝】です。

この歴史書には、倭国の王として5人の人物が登場します。名前を・・・

讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)

は??( ゚д゚)ポカーン

って感じですね(笑)残念ながらこれが呼称なんですって。

讃・珍・済・興・武と呼ばれた5人の男性はみな、倭国の王とされています。

ただし、日本の歴史書である『日本書紀』と比較して誰のことだかが推測できるのは、

済・興・武の3人だけなんです。

<倭の五王>(『宋書』――『日本書紀』の比較)

  • 讃 ―― (不明)
  • 珍 ―― (不明)
  • 済 ―― 允恭天皇
  • 興 ―― 安康天皇
  • 武 ―― 雄略天皇 <ワカタケル大王>

済と呼ばれた人物は【允恭天皇】(いんぎょうてんのう)と考えられます。

興と呼ばれた人物は【安康天皇】(あんこうてんのう)

そして最も重要なのが【武】と呼ばれた人物が【雄略天皇】(ゆうりゃくてんのう)ということです。

とりあえず、【武】=【雄略天皇】ということは必ずインプットしましょうね♪

でもこの説明だけでは、なぜ武が雄略天皇なのか疑問ですよね。

ちゃんと説明しましょう!下の系図を見てください。

『宋書』には讃と珍が兄弟であるという記載はあるものの、済・興・武との関係については一切記載されていません。しかも讃・珍が兄弟ってのも実は怪しい・・・

一方、済・興・武については、済が親で興と武は兄弟ということが分かっています。

これを日本書紀の日本の天皇系図と照らし合わせてみると、

允恭(父)と安康(兄)と雄略(弟)という関係が、『宋書』の記載と一致するんです

他にもさまざまな記載を精査した結果、済・興・武というのは允恭・安康・雄略のことだという説が一般化しています。

ただし、あとで詳しくお話しますが『日本書紀』が必ずしも正しいとは限らないんです!!

歴史書に書いてあることがすべて正しいとは言えない・・・ってのも歴史学の醍醐味ですね!あー難しい。あー面白い(`・ω・´)

倭王武の上表文に見える、倭国の勢力圏

倭王【武】が即位すると、中国の宋に対して使者を派遣します。

もちろん戦いを有利にするために【称号】をもらいたいんですもんね!!

この動きが【『宋書』倭国伝】に記載されています。

正直、大学入試を想定するならこの部分さえ押さえていれば大丈夫だと思いますよ。

倭王武の上表文(出典:『宋書』倭国伝)

興死して弟武立つ。自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王と称す。

順帝の昇明二年、使を遣はして表を上りて曰く、「封国は…(略)…」と。

詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・ 倭王に除す。   

「興が死んだので弟の武が即位したよ。わたくし武は、倭だけじゃなく百済とか新羅など”七国”を治める倭国王なんだ!」

「478年に宋に使い送って、先祖の代からアレと戦い、コレを倒して…って自己紹介したんだけど、順帝からは百済を除いた”六国”を治める倭王ねって言われたんだ!」

はい!!こんな感じの文章です(笑)崩しすぎですね( *´艸`)

まずチェックして欲しいのが、「興死して弟武立つ」の部分。

兄の興(=安康天皇)が死んだので、弟の武(=雄略天皇)が即位したという意です。

この部分だけ引用して、「この史料な何か?」って問題が多いので要チェックですよ!

その下の部分は、即位した雄略天皇が戦いを有利にするために中国の皇帝から【称号】をもらうための上表です。

ちなみに上表っていうのは君主に対して意見書を奉ることね!

そのため出典は【『宋書』倭国伝】なんですが、史料名は【倭王武の上表文】とも呼ばれています。

簡単に解説すると、雄略天皇は百済も自ら支配していると主張して”七国を支配する倭国王”って言ってるんだけど、宋の皇帝順帝には認めてもらえなかった。

理由としては百済は宋にとっても重要な場所で、倭国に支配権を渡すと方々でめんどくさいことになると考えたからみたい。

だから、最終的に宋の皇帝から認められた称号は、”六国を支配する倭王”となったって訳です。

雄略天皇…残念だったね(´・ω・`) まぁ称号もらえたし良かったじゃん。

ヤマト政権の支配権は、少なくとも北は関東、南は九州まで広がる

この雄略天皇。実は倭国内でも超有名人物です。

ワカタケル大王】って聞いたことありますか?

実はこの人、雄略天皇と同一人物なんです!!!!!

つまり、武 = 雄略天皇 = ワカタケル大王 ってこと☆

ちょっと脱線するんですが…【雄略天皇】みたいな天皇の名前って死んだあとつけられる名前なんです。一部例外もあるんですが。。。

生きてる間には雄略天皇とは呼ばれていません。【ワカタケル大王】って呼ばれていたみたいなんです。

じゃあ、【ワカタケル大王】は何をしたのか?

功績を残した人々に剣とか刀をプレゼントした。しかも文章入りで。

おそらく天皇権力とかヤマト政権の支配領域の拡大のために尽力した功績ってことみたいなんですが、有名な遺物が2つあります。

<ワカタケル大王の銘がある遺物>

  • (熊本県)江田船山古墳出土鉄刀

銘文:「…犭隻□□□鹵大王の世…」

  • (埼玉県)稲荷山古墳出土鉄剣

銘文:「<表>辛亥の年(471年)… <裏>…犭隻加多支鹵大王の寺…」

先に発見されたのが、熊本県の【江田船山古墳出土鉄刀

古墳から鉄製の刀が見つかりました。

この鉄刀には「犭隻□□□鹵大王」と文字が刻まれているのは分かったんですが、

1文字目と「犭隻」と5文字目「鹵」が辛うじて読めるかな?ってぐらい。。

なかなか解読できなかったみたいです。

そんなとき別の古墳から鉄剣が発見されます。

それが埼玉県の【稲荷山古墳出土鉄剣】!

銘文には「犭隻加多支鹵大王」と書かれていました。これをワカタケル大王と読む!

江田船山古墳の出土鉄刀も「ワカタケル大王」と読めるのではないか?

ということで現在ではどちらも【ワカタケル大王】の名前が銘文に残る遺物として教科書にも記載されているんです。

しかも稲荷山古墳の出土鉄剣には辛亥の年】(471年)と刻まれているのでちょうど5世紀!雄略天皇の治世で合致しています。

同じ「ワカタケル大王」の名前が刻まれた遺物が埼玉県と熊本県の古墳から見つかったことで、

ヤマト政権の支配領域が、少なくとも関東から九州まで広がっていたのではないかと考えられています。

それにしても、辛亥の年とか…辛卯の年とか… 混乱しそうですよね~

わたしは辛亥の年を「竹刀(しない=471)じゃないよ。鉄剣だよ。」っていうゴロ合わせを気に入って使ってます。

年号はお気に入りのゴロ合わせを見つけるのがおすすめ!

自分で作ってみるのもいいかもしれませんね( *´艸`)

渡来人の影響もあり、漢字を用いた遺物が増える

前回の4世紀の説明でも話ましたが、この頃から【渡来人】が倭国にやってきます。

彼らは大陸の文化を倭国に教えてくれるので、とっても有益な存在でした!

その1例が【漢字】です!!

江田船山古墳出土鉄刀も稲荷山古墳出土鉄剣も【漢字】が刻まれていましたが、実はこれだけではありません。

<漢字を使用した遺物>

  • 石上神宮の七支刀(奈良県)
  • 隅田八幡神社の人物画像鏡(和歌山県)
  • 稲荷台古墳1号墳出土鉄剣(千葉県)
  • 岡田山1号墳出土大刀(島根県)        など。

特に奈良県の石上神宮にある【七支刀】は有名ですね。刃が7つに分岐しているので形が特徴的です。

渡来人の影響で【漢字】だけでなく【信仰】や【道具】などにも大きな変化が訪れます。

次回は古墳時代に倭国が大陸からどのような文化を受容したのかについて勉強しましょう♪

<まとめ>

(1)『宋書』倭国伝には5世紀の倭の五王が登場。

(2)武 = 雄略天皇 =ワカタケル大王 

(3)ヤマト政権の支配領域は、関東から九州を含む地域に拡大。

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