歴史

弥生時代は戦いの時代!争いってなんで起こるの??

歴史

弥生時代には金属器も大陸から伝来しました。【青銅器】と【鉄器】です。この2つの金属器の違いはずばり硬さです!

世界中で先に普及した青銅器とは、銅と錫の合金を指します。銅は安価で大量に手に入るのですが柔らかすぎて道具には使えません。そこで錫を混ぜることで硬さを補い加工しやすくしていました。しかし、鉄器に比べれば強度は劣るため、これまで加工が難しかった鉄などの加工技術が進展すると、よりも硬く頑丈であった鉄器が武器はもちろん農具などにも使われるようになっていきました。

青銅器と鉄器が日本に伝来するのは、弥生時代のほぼ同時期のことでした。そのため、日本では早くから【青銅器】と【鉄器】それぞれの特質に合わせた用途で使用されていました。今日はこの”金属器の使い分け”に注目してみていきましょう。

余剰生産物をめぐって、争いが始まる

弥生時代には、農耕が始まったことで集団の人数も多くなり大規模な集落が各地で現れるようになりました。

川が近く日当たりのいい場所に集落を設けることができるものも居れば、日当たりが悪く平地に水田を設けることができない集落もあったはずです。そうすると生じてしまうのが”収穫量の差。農耕は自然が相手なので台風や川の氾濫などで収穫量が確保できない集落もあったでしょう。

基本的に米の収穫は1年に1度です。秋に収穫できなければ冬から次の秋まで食つなぐことは容易いことではありませんね。集落の人数が多ければ飢え死にする可能性も高まっていきます。

さあ、想像してください!自分の集落で米が収穫できなかったら…次の秋まで貧しく飢え死にを覚悟しなければならない状況に置かれてしまったら…みなさんならどうしますか??

わたしなら、他人の物を奪いますね!!

胸を張って言うのはいかがなものかと思いますが、飢え死にはどうにか避けたいところです。願わくば隣の集落から恵んでもらいたいですが、弥生時代に隣の集落まで養えるほど【余剰生産物】があった集落も珍しいと思います。【余剰生産物】とは、収穫物のうち自分たちの集落では消費しきれなかったもの(米)のことです。

つまり弥生時代にはたくさんの集落が生まれ、余剰生産物が多い”豊かな集落”もあれば、余剰生産物どころか収穫物が足りない”貧しい集落”もあったということ。これによって食料をめぐる争いが始まったと考えられます。そこで必要になるのが【武器】ですね。自分の命を守る武器ですから、より硬く頑丈なものを欲するはず。武器にはもちろん【鉄器】が用いられています。

弥生時代には戦いに特化した集落も出現し始める

弥生時代に各地で戦いが始まることは、鉄製の武器からも明らかになっていますが、集落の遺跡からも新たな発見があります。

静岡県登呂遺跡は本格的な水田を持つ集落の代表例。

登呂遺跡は弥生時代後期の集落跡ですが、灌漑・排水用の水路が整備された立派な水田跡が見つかったことで有名です。さらに貯蔵穴や【高床倉庫】があり、収穫物の保存を重視していたことも分かっています。

佐賀県吉野ケ里遺跡は環濠集落の代表例。

一方、佐賀県吉野ケ里遺跡は、ただの巨大集落ではなく、防衛設備を整えた集落として有名です。収穫物を守るため内外2重の環濠(濠)をめぐらしています。濠(ほり)っていうのは、四方に溝を掘っておいて雨水が溜まれば人の侵入を防ぐことができる防御用の設備のことです。防御のための濠を設けている集落を【環濠集落】といいます。

出典:『最新 日本史図表』第一学習社

香川県紫雲出山遺跡は高地性集落と呼ばれる避難用の集落。

香川県の紫雲出山遺跡は、山頂に設けられた集落です。なぜこんな不便なところに設けたのでしょう?農耕をしようにも川から水を引くのも難しく、傾斜があって広い水田も作れません。でもこの様な集落は瀬戸内に広く分布しているんです。

高地性集落の役割は、避難用の”逃げ城”ではないかと考えられています。つまり、戦いの中で自分の集落に居られなくなった場合、食料や武器を保管しておく場所です。敵に見つかりづらく、攻め込まれにくい山頂に設けた集落を【高地性集落】といいます。

環濠集落や高地性集落が日本の各地から発見されたことからも、弥生時代は戦いが激しく行われていた時代ということが理解できると思います。

<弥生時代の集落>

  • 本格的な水田跡を持つ集落・・・(代表例)静岡県登呂遺跡
  • 防衛設備を持つ集落【環濠集落】・・・(代表例)佐賀県吉野ケ里遺跡
  • 山頂に設けた集落【高地性集落】・・・(代表例)香川県紫雲出山遺跡

弥生時代には、身分の差がうまれ支配者が誕生する

戦いが始まった弥生時代には、縄文時代とは明らかに異なった身分の差がうまれたと考えられています。その要因の一つが【墓制】。つまりお墓です。縄文時代にはみな共同墓地に埋葬されていたのに対して、弥生時代にはさまざまな形のお墓が出現します。さらには【副葬品】と言って、死者と共に埋葬された物もたくさん見つかっています。

まずは、共同墓地での特徴的な埋葬方法から見ていきましょう。

  1. 支石墓(九州北部)
  2. 甕棺墓(九州北部)
  3. 再葬墓(東日本)

お墓といえば、縄文時代の共同墓地では手足を折り曲げる【屈葬】という埋葬方法を行っていたのを覚えていますか??弥生時代の埋葬方法は【伸展葬】と言って手足をまっすぐに伸ばして埋葬する方法に変わるので、覚えておきましょう。

九州北部で多く発見されるのが、【支石墓】と【甕棺墓】です。支石墓とは死者を埋葬した後、地上に大きな石を設置するもので”目印”と理解してもらえば分かりやすいかと思います。甕棺墓は弥生土器の甕を2つ組み合わせて棺の役割をさせる埋葬方法です。また出てきましたね「甕」。漢字で書けるように頑張りましょう。

東北を中心とした東日本で見つかるのが【再葬墓】です。頻出度は低いかもしれません。再葬墓は一度死者を土に埋めて、数か月~数年後に再度掘り返して骨のみを壺に納めて埋葬する方法です。

これらは特徴的な埋葬方法ではあっても、見つかっている数も多いので”被支配者”いわゆる一般人のお墓と考えて良いかと思います。(一部の甕棺墓には副葬品も持つ支配者の墓と考えられるものもあります。)

墳丘墓など、支配者(王)の墓が出現する

弥生時代には縄文時代までは作られなかった特別なお墓も出現します。巨大な墓にも関わらず埋葬者は1人または2~4人と少人数であるため、支配者的な存在の墓であると考えられています。

  1. 墳丘墓
  2. 方形周溝墓
  3. 岡山県の楯築墳丘墓
  4. 山陰地方の四隅突出型墳丘墓

墳丘墓】というのは、盛り土によって丘状の塚を築く墓で、上記4つはすべて墳丘を有する墓になっているので、言ってしまえば全部【墳丘墓】です。この中でも特に重要なのが【方形周溝墓】で、方形に盛土された墳丘の周りに溝をめぐらし中央部に死者を埋葬する墓のことです。西日本から東日本に広がり弥生時代後期には大規模なものも増加していきます。

方形周溝墓をはじめとする大型の墳丘墓や大量の副葬品をもつ墓は、集団の中の”支配者”の墓であると考えられ、王と呼ばれる存在がうまれる一方で、共同墓地も存在し続けることから弥生時代には身分差がうまれ強力な支配者が出現したことが確認されている。

<弥生時代の主な墓制>

  • 支石墓・・・大きな石の下に埋葬する方法。(九州北部に多く分布)
  • 甕棺墓・・・大型の甕の中に遺体を安置する方法。(九州北部に分布)
  • 再葬墓・・・白骨化した後、壺に入れ埋葬する方法。(東日本に分布)
  • 墳丘墓・・・盛土によって一部を高くした墓。(九州~東北に広く分布)
  • 方形周溝墓・・・方形の墳丘の周りに溝をめぐらす墓。(九州~東北)
  • 楯築墳丘墓・・・2つの突出部のある弥生最大級の墳丘墓。(岡山県)
  • 四隅突出型墳丘墓・・・四隅が突出している後期の墳丘墓。(山陰地方)

収穫を祈願し・収穫を感謝する祭りが始まる

日本には鉄器と青銅器はほぼ同時期に伝来しました。今までも説明した通り、鉄器は戦いに必要な武器として重宝されました。さらに鉄器が普及すると、農具の一部に鉄が使われるようになっていきました。

では、【青銅器】は何に使われたのでしょう?加工の難しさをクリアすれば、実用的なのは確実に鉄器です。しかし、日本では青銅器も大事な道具として定着します。その用途が【祭器】!!つまり、お祭りの時に飾る道具でした。

<主な青銅製祭器>

  • 銅鐸(どうたく)・・・巨大な鈴の形(近畿地方を中心に分布)
  • 銅剣(どうけん)・・・剣の刃の部分(瀬戸内を中心に分布)
  • 銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・・・矛は槍の先。戈は直角につける刃の先のこと(九州地方を中心に分布)

弥生時代になると、農耕がはじまります。農耕には豊かな水と太陽光が不可欠ですね。弥生人だって自然の恵みがあって初めて収穫物を得ることができると理解していたはず。そのため【祭祀】が必要になっていきます。5月の田植えシーズンには神に収穫を祈願し、11月の収穫時には神に感謝する。こういうお祭りは日本人には馴染み深いと思います。

そのお祭りで使用された道具を【祭器】といいます。いろんな形があるのですが、出土する地域ごとに3つに分類して説明します。

銅鐸】は大型の鈴の形をしています。朝鮮半島から日本に伝わってきた後どんどん大きなものが作られるようになったらしいです。【銅鐸】は近畿地方を中心に出土しています。

出典:『新詳日本史』浜島書店

銅剣】は名前の通り青銅製の剣です。日本の刀というより中国の剣をイメージしてください。柄の部分は木製とか別に取り付けられるので、刃の部分だけが青銅で作られます。四国とか山陰・山陽地方を中心に、瀬戸内地方で出土することが多いです。

銅矛・銅戈】はあまり馴染みがないですね。矛は槍のことで、先端の金属部分のみが青銅製で残っています。戈というのは木の柄に対して直角に刃を取り付ける大陸で使われていた武器です。馬車の上から敵を倒すのに使う道具だったようなので、日本では実用的な武器としては使われていません。”祭りの飾り”として日本でも作られたんでしょうね。銅矛・銅戈は九州で多く出土しています。

青銅製祭器については、それぞれの名称も大事ですが”分布する地域”がよく問われます。なので、「銅鐸は近畿地方」「銅剣は瀬戸内」「銅矛・銅戈は九州」というように名称と出土地を組み合わせてインプットするのをおすすめします。

島根県荒神谷遺跡からは大量の銅剣が出土。その数358本!!

青銅製祭器に関して、忘れてはいけない遺跡があります。

<祭器の出土遺跡>

  • 島根県荒神谷遺跡・・・358本の銅剣と6個の銅鐸、16本の銅矛が出土。
  • 島根県加茂岩倉遺跡・・・39個の銅鐸が出土。

☆どちらの遺跡からも土の中に祭器が並べて埋めてあった。

荒神谷遺跡からは、なんと358本もの銅剣や銅鐸や銅矛が綺麗に並べて埋めてある状態で発見されました。その後、加茂岩倉遺跡でも39個の銅鐸が発見されました。

出典:『新詳日本史』浜島書店

この遺跡の発見から青銅製祭器は1年に数回、お祭りの時にしか使わない道具であるので普段は土の中にしまっていたのではないか。と考えられています。実際はどうなのか分かりませんが、とてもインパクトのある遺跡ですね!

ちなみに島根県は山陰地方。つまり瀬戸内地方なので銅剣が見つかるのは納得ですが、その他にも銅鐸や銅矛も見つかっています。詳しい理由は分かりませんが、島根県は【出雲国】。古代から神々が集まる重要な地域と考えらえるので、この2つの遺跡は非常に興味深い遺跡と言われていますよ(^^)

鉄器は実用的な武器や農具。青銅器は祭器に用いられる

弥生時代に日本に伝来した【鉄器】と【青銅器】がどのように使われたかを見ていくと、弥生時代が戦いが始まった時代であり、祭祀を重視した時代だったことが分かりましたね!

戦いにしても、祭祀にしても多くの人を束ねて同じことを行うのには、やっぱりリーダーの存在が大きくなっていった。その結果、支配者(王)と呼ばれる身分の人がうまれて大きな墓が作られたんだと理解しましょう。

<まとめ>

(1)弥生時代には、食料をめぐり争いが激しくなった。

(2)身分の差がうまれ、支配者(王)が出現した。

(3)農耕の定着によって、神への祭祀が重視された。

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