邪馬台国の【卑弥呼】って、美しい女性で描かれることが多いと思いませんか?
実際の卑弥呼はヨボヨボのおばあちゃんだった可能性もあるんですよ(‘ω’)ノ
中国の歴史書には、卑弥呼が女王となった時期を西暦180年頃と記載するものがあるらしく、
これから読んでいく『魏志』倭人伝を見ると、卑弥呼は239年に魏に使いを送って、248年頃に亡くなったみたいなんです。
ってことは約60年以上も女王として君臨していたってこと!!
まぁ歴史書の記載がすべて正しければの話ですが…
弟以外には姿を見せなかった卑弥呼ですが、実際はシワシワでヨボヨボのおばあちゃんだったのかも、
…いや、それとも何かしらの力で80歳でも超絶美しい美魔女みたいな人だったのかもしれませんね( *´艸`)
『魏志』倭人伝には、邪馬台国や卑弥呼の記載が残る
卑弥呼が登場して、邪馬台国の様子が記載されている歴史書を【『魏志』倭人伝】と言います。
でも厳密にいうと『魏志』倭人伝っていうのは正式名称ではないんです。
じゃあ何かというと、みんなご存じ『三国志』!
『三国志』とは後漢のあと魏・呉・蜀の並び立つ三国時代の歴史書で、魏との交流があった倭国の様子も記載されています。
この倭国に関連した部分を『魏志』倭人伝と呼んでいます。
日本史的には【『魏志』倭人伝】でインプットしてくださいね!
『魏志』倭人伝は、項目ごとに分解して理解しよう。
今日は【『魏志』倭人伝】を読んで、邪馬台国のこと・卑弥呼のことを理解してもらいたいのですが、『魏志』倭人伝って情報量が多いんですよね~。なので・・・
- 倭国や邪馬台国の位置ってどこなのか。
- 倭国ってどんな社会だったのか。
- 卑弥呼はどんな人物なのか。
- 倭国と魏はどんな交流があったのか。
- 卑弥呼が死んだあと倭国はどうなるのか。
上記5つの項目ごとに分けて説明したいと思います。
史料は必要箇所を抜粋して項目ごとに紹介していくので、繰り返し読みながら内容を理解してください!!
邪馬台国はどこにあるのか?所在地は現在でも確定できていない!
「倭人は帯方郡より海の向こうにいて、山とか島に国をつくってるらしいよ。漢の時代には百余国あって朝貢してたんだけど、今は三十国になったって。帯方郡から倭国に行くには、あー行って、こー行けば、邪馬台国に着くよ。そこは女王が都を置いてる所なんだってさ。」
まず登場するのが【帯方郡】です。これは朝鮮半島に置かれた郡なんですが・・・
「あれ?楽浪郡じゃなかったっけ?」と思った人!素晴らしい(*´ω`*)
前漢の時代には【楽浪郡】だった場所が、北側の楽浪郡・南側の帯方郡に分割されたんです。
なので指している位置は朝鮮半島のほぼ同じ場所なんですが、
新しく【帯方郡】が設置されたんだな、と覚えておきましょう。
そのあとの部分はちょっと長いですが、要チェックですよ!
何のことを示してるか分かりますね?【『漢書』地理志】の記載内容です。
中国の人たちも「前漢の頃は百数国あったよね~」って復習しているんです。
そして魏の時代になって朝貢してくる国は【三十国】です。
同じ魏に朝貢している三十国は連合を組んでいました。
その中心となるのが【邪馬台国】であったことから、教科書には【邪馬台国連合】という呼び方が出てきますね。
ちなみに、邪馬台国が日本のどこにあったのか?というのは長年の疑問なんです。
沢山の研究者が血眼になって『魏志』倭人伝を読んで議論しているのですが、
まだ確定はされていません。
最も有力なのが、【近畿説】と【九州説】です。
まぁ無責任な立場から言わせてもらえば…
「東大派閥と京大派閥のケンカやないかーい!」と思っちゃうんですよ。いやマジで(笑)
でも、地元の方々にしたら大きな問題なので議論はまだまだ白熱しそうですね!
箸墓古墳の大規模遺跡調査が実現すれば、ビシっと答えが出るかもしれません(^^;)
邪馬台国社会には、王だけでなく大人と下戸などの身分が存在していた。
「女王の国より北には一大率っていう役人がいて諸国を見張ってるんだけど、みんなこれにびびってんだよね。・・・下戸っていう低身分のヤツが大人に道で出会っちゃったら、下戸は草むらに入って道を譲って、もし話しかける時はうずくまったり跪いたりしなきゃダメだよ。両手を地面につけるのも忘れずにね!」
【一大率】というのは邪馬台国が置いた役人のことで、諸国を検察した役割から恐れられる立場だったと書かれています。
さらに当時の社会には女王だけでなく【大人】と【下戸】と呼ばれる身分が存在していた様で、
王 > 大人 > 下戸 という力関係にあったと推測できます。
卑弥呼は鬼道が得意だったので、女王として国を治めた
「これまで70~80年は男の王だったんだけど、国が乱れ戦いが終わらないもんだから、連合で話し合って女の子を王にしたんだって。それが卑弥呼だよ!卑弥呼は鬼道と言われる呪術が得意だったので民を束ねることができたみたい。」
【『後漢書』東夷伝】でも話をした倭国大乱。
長い間激しい戦いが終わらなかった、その原因が男性の王だからダメなんだって言われちゃったみたいですね。
そこで三十国の邪馬台国連合は1人の女の子を王として擁立した。
これが【卑弥呼】です☆
【卑弥呼】がなんで女王になったかというと【鬼道】が得意だったから。
【鬼道】というのは断定するのは難しいんですが、呪術とか占いとかだと理解してください。
神の声を聞くことができる巫女的な役割だったのでは?
とも言われますが、これは生涯未婚で弟が政治を助けて人前にはほとんど出なかったという記載からイメージされることでしょうね!
卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と銅鏡をもらった
「239年、倭の女王が使いを送って皇帝に会いたいとお願いしたみたい。そしたら同じ年の12月、皇帝からの手紙に<あなたのことを”親魏倭王”として金印と100枚の鏡をあげましょう>って書いてあったんだって。」
まずメモして欲しいのが、【景初二年】!
これは他の記述とも照合して【景初三年】=239年のことで、誤りであると指摘されています。
なので卑弥呼が魏に使いを送ったのは239年ってことでインプットしてくださいね!
卑弥呼は魏に使いを出します。
実はこのあと邪馬台国は句奴国という国と戦争になるんです。だから戦いを有利にするためにお墨付きが欲しかったのかもしれません。
卑弥呼の願い通り、魏の皇帝から【親魏倭王】という称号をもらいます。
「魏に従う倭国の王だよ!」という意味の称号です。
この言葉が刻まれた金印ももらった様なんですが残念ながら見つかっていません。
さらに卑弥呼がプレゼントされたのが【銅鏡】青銅製の鏡ですね!
これが日本で多く出土している【三角縁神獣鏡】なのではないか。とも言われていますが、疑問も多々残るのでさらっと流しておきましょう。
卑弥呼の死後、再び国が乱れたから壱与が女王となる
「卑弥呼が死んだ!卑弥呼のために大きなお墓を作ったんだけど、一緒に死んだ人がなんと100人ぐらい居たって。その後男の王が登場するんだけど、みんな言うことを聞かないから、卑弥呼の一族から13歳の壱与を女王にしてみたら、国が安定したよ。」
さっき説明した狗奴国との戦争中に卑弥呼は死んでしまいます。
卑弥呼は偉大な女王だったので大きな墓を作ります。
この時一緒に死んだ人が約100人も居るってことにも驚きですね。
しかし卑弥呼の死後、再び倭国が乱れ始めた。
男王が原因なのかは分かりませんが「やっぱり女王じゃないと!」と思ったみたいで、
【壱与】が女王になります。
壱与は【卑弥呼の宗女】だったんですが、【宗女】とは一族の女性のこと。
卑弥呼は生涯未婚なので子供はいません。間違えたらダメですよ!
ちなみに【壱与】を【台与】ではないかとする説もありますが、あまり気にせず【壱与】で覚えてくれたらOKです。
壱=壹で台=臺なので、正しい漢字がどっちなのか分かんないんです(^^;)
”空白の4世紀”は中国の歴史書に日本の記載が消える
『魏志』倭人伝。なかなかの強敵でしたね!
でも内容をしっかりとイメージできるようになっていれば、テスト問題は大丈夫だと思います(^^)
あとは所々に出てくる重要なキーワードをしっかりとインプットしましょう!
さて、13歳の壱与が女王になった倭国ですがその後どうなるんでしょう?
実は、266年に倭の女王が晋(中国)に使いを送った。という記載のあと150年間、倭国はパタっと歴史書から姿を消し5世紀まで出てきません。
”空白の4世紀”って言葉もあるんです。
でも「じゃあ4世紀の歴史は何もわからないじゃん。」と思わないで下さい☆
日本には4世紀のものとみられる遺跡や遺物が発見されているんです。
次回は古墳時代に入りましょう!
<まとめ>
(1)倭国は邪馬台国を中心とする三十国の連合を組み、魏に朝貢していた。
(2)女王卑弥呼は鬼道が得意で、国を治めていた。
(3)卑弥呼は魏に使いを送り、親魏倭王の称号と銅鏡を得た。
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