『空白の4世紀』という言葉があります。
3世紀までのことも、5世紀以降のことも、中国の歴史書に記載があるのに、
4世紀に関しては、中国の歴史書の中に倭国の記載が一切見られないんです!
今日はそんな4世紀頃の日本の様子を、詳しく見ていきましょう。
4世紀は遊牧民の大移動で、中国の支配力が弱体化
4世紀になると、中国の北方にいた遊牧民が南へ移動を始めます。
その結果、三国時代を統一した【晋】が南下し【五胡十六国時代】になるんです。
まぁ、難しく説明しちゃったんですが一説によると4世紀頃の地球は平均気温がぐっと低くなったみたいで、寒さに耐えられなくなった遊牧民たちが移動を始めたんです。
当時の遊牧民って戦いがめっちゃ強かったので、中国全土を支配していた【晋】も戦いを避け南へ。中国に小さな国がたくさんできて統治が難しい状況になったんですよ。
そこでチャンスがめぐって来たのが、朝鮮半島の人々でした!
今まで朝鮮半島は中国の王朝に服属していて、支配されていたんです。
でもこのとき、中国はごちゃごちゃ!独立するなら今がチャンスです☆
朝鮮半島で4つの地域で国家形成が進む。
4世紀になると、朝鮮半島の北部では中国が置いた【楽浪郡】を滅ぼし、【高句麗】が建国します。
さらに朝鮮半島の南部では、3世紀までに【馬韓】【辰韓】【弁韓】という地域に分かれていました。
この3つの地域から、4世紀に【馬韓】が【百済】として建国します。
さらに【辰韓】が【新羅】になります。
そして【弁韓】では依然として小国連合が続き、【加耶諸国】とか【加羅】と呼ばれるようになりました。
<朝鮮半島の国家形成>
- 朝鮮北部・・・高句麗
- 朝鮮南部〔馬韓〕・・・百済
- 朝鮮南部〔辰韓〕・・・新羅
- 朝鮮南部〔弁韓〕・・・加耶諸国 または 加羅
倭国は鉄資源を求めて加耶諸国と密接な関係を結ぶ
朝鮮半島で国家形成が進むと、倭国も朝鮮半島との関係を築き始めます。
特に仲良くしたのが、百済と加耶諸国。
朝鮮半島南部の【加耶諸国】では鉄が豊富に産出したことから、倭国は【鉄資源】を求めていたと推測されています。
しかし、鉄というのはどの国にとっても有益!!
そりゃ他の国だって鉄が欲しいですよね?・・・だから戦いが始まるんです。
「好太王碑の碑文」に倭国と高句麗の戦いの証拠が残る
4世紀後半に、倭国は朝鮮半島の高句麗と交戦したと考えられています。
その証拠となるのが【好太王碑の碑文】という史料です。
【好太王】とは、高句麗の王で【広開土王】とも呼ばれ英雄的な存在です。
この好太王の功績を残すために建てられたのが【好太王碑】という石碑です。
めちゃめちゃ大きくて高さ6.4メートルもあるらしいです。高句麗の【丸都】(現在の中国吉林省)に建てられました。
存在感もすごいですが、石碑には文字が刻んであって、文字の史料としても重要な遺物です。
※(史料の読解できない部分は、□で表します。)
「百済と新羅はもともと高句麗に服属して朝貢していたのに、391年に倭国が攻めてきて百済と新羅を臣民として従えちゃったんだよ。」と書かれています。
もちろん、好太王の功績をたたえているので、この後の碑文には「好太王が倭国を破ったよー」って書かれているんですが、日本史的にはこの短い部分が分かればOKです。
つまり、この【好太王碑の碑文】を読んでも分かるように、【辛卯の年】(西暦391年のこと)倭国は高句麗と戦っているんです。
中国の歴史書に倭国の記載がないから「空白の4世紀」なんて呼ばれてますが、実は他の史料からも分かることはたくさんあるんですよ( *´艸`)
高句麗との交戦の結果、渡来人を受け入れ騎馬技術を学ぶ
4世紀後半に行った高句麗との戦いによって、倭国がさまざまなものを獲得します。
まずは【騎馬技術】
高句麗と戦った際、高句麗軍は馬を使って戦いました。4世紀当時の倭国には馬を戦いに使う習慣はなかったので、そりゃあもうビックリしたことでしょう。
戦いのあと、騎馬技術を取り入れたことは古墳や埴輪からも分かります。
前回勉強しましたよね?
5世紀以降の中期古墳の副葬品には武器と馬具が多いのです。
後期古墳になると、人型埴輪とともに馬型の埴輪も多くなっていきます。
つまり、倭国は高句麗との戦いで馬を使った戦い方を学び、馬に乗って戦いに勝利する人物こそが王として君臨する社会になったということです。
さらに、騎馬技術とともに朝鮮半島の人々も多く倭国にやってきました。こういう人を【渡来人】と言います。
【渡来人】は騎馬技術だけでなく、多くの技術を倭国にもたらしました。
大陸由来の新しい技術によって形成された5世紀の倭国の様子は、また次回勉強しましょう。
<まとめ>
(1)中国の支配力低下で、朝鮮半島で国家形成がすすむ
(2)倭国は鉄を求めて、朝鮮半島の諸国との交流をもつ
(3)4世紀後半、倭国は高句麗と交戦(「好太王碑の碑文」)
コメント